2011年3月28日月曜日

言葉は

空疎だね。夜鼻血出す。朝吐く。腰にはインドメタシン、ピアスの穴はぐずり出す。どうなってんだこの身体。
病院で数か月振りKさん。「くるり返すから、待ってて」というのでしばらく待つ。スポーツ新聞片手に戻って来、煙草の買いだめの話など少々。じゃあね、と手を振ると手のひらをこちらに向けたまま静止してKさんは「ハイタッチ。」と言った。とてもハイとは言えないタッチを返す。
仕事帰り久しぶりにマトリョーシカを通して聴く。Y嬢やS先生は泣くらしいが私は泣かないよ。マトリョーシカの音は私になにも思い出させない。泣くという行為はこう、後ろから矢印が来るようなことだ、情景や、人物が浮かんだり。それはない。何故気に入っているのかというと、諦める事が出来るような気がするからです。
昨夜は薬を飲んでもなかなか眠れず、ライ・クーダーをヘッドフォンで最後まで聴いてしまった。これはたいそう辛かった。
ファミリーマートのK君(天津向井似、私のお気に入り)は今日もレジ打ち。八百屋のおばさんに挨拶。一日が終わる。君の幸せは君しか知らない(フライング・キッズ)。

2011年3月23日水曜日

ここしばらく

他者の病を通して自分を見ている。ああ、こういう風に、私も病んでいるのだな、とコミュニケーションのとれなくなってしまった友人の事を思う。ただただ届くメールに、無力さと、自分を重ね合わせる。
日本では地震。スケジュール管理という仕事柄、全国の方とやりとりをする。何気ない思いやりの言葉に、胸が詰まる。何気ない一言にその人物をジャッジしてしまったりもする。
家ではNHKをほぼつけっぱなし。自分でも驚く程無感情に流しているけれど、時々ふいのニュースで唐突に涙が出て「こんな筈では」と。ジャミロクワイがデビューした時に「湾岸戦争のニュースを見て食事がとれなくなるような過剰な繊細さ」と評していたライターがいたけれど、世界が過剰なんだから、そういうものこそ必要なんじゃないか。しかし食事時だけ見る民放でACのCM「楽しいなかまが~」が流れると腕だけはアニメーションのキャラクターと同じ動きをとってしまう。
町中が節電、でもこれくらいが丁度いい、明るいところは嫌いだ。野菜も水も放射性元素が基準値を越えている。マスクをしろ、昆布を食べろなど届くアドバイスを無視して余震の中元気にやっています。